(出典 www.jsgoal.jp)



日本代表が挑む南米決戦、20年前に味わった守護神の言葉から見る恐ろしさ

 今からちょうど20年前の1999年6月。サッカー日本代表は初めてコパ・アメリカに出場した。あくまでも招待国という位置付けではあるが、南米大陸で行われる真剣勝負の場に日の丸戦士たちが挑んだ歴史の1ページである。

 2018シーズン限りで現役を退き、現在は指導者としての道を歩み始めた川口能活氏は当時の代表メンバーの一人だ。

 1994年横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に加入し、96年のアトランタ五輪では「マイアミの奇跡」と呼ばれるブラジル撃破に大きく貢献。そして日本が初出場した98年ワールドカップ(W杯)フランス大会でも3試合すべてでゴールマウスを守り、視界はまさしく前途洋々だった。

「世界大会の場数を踏んで順調にステップアップしていた時期だったと思います。フランスW杯後は海外クラブプレーしたいという欲も出てきましたし、自分の中で“世界”を意識してプレーするようになっていました。

 パラグアイやペルーとはキリンカップなどで対戦したこともあって、日本(ホーム)では引き分けか負けても1点差でいつも互角の勝負をしていました。『いい戦いができるんじゃないか』という期待を持ってコパ・アメリカに臨んだのが正直なところです。ところが、とんでもなく甘い発想でした」

 日本は初戦でペルーと対戦し、2-3で敗れて黒星スタートとなった。その試合をベンチから見守った川口氏は「日本で対戦したペルーとはまったく違う」と唾を飲み込んだ。スコアこそ1点差の接戦だが、内容は完敗だった。

 出番が訪れたのは第2戦。開催国のパラグアイとの一戦に川口氏は先発としてピッチに立った。第1戦でボリビアと引き分けていたパラグアイは是が非でも勝ち点3が必要な状況で、首都・アスンシオンのスタジアムはホスト国のサポーターで超満員となった。

味わった現役人生最大の大敗「本当の意味で何もできず圧倒された」

「ナイターだったこともあって、スタジアムは異様な雰囲気に包まれていました。威圧感や迫力が何倍にも増して、試合前から圧倒されてしまいました。中立国で開催されるW杯とは異なり、彼らにとってはホームゲームなんです。『アジアからやってきた日本には絶対に負けられない』という強烈なモチベーションがピッチ上の選手だけでなくスタンドからも感じられました。

 いざ試合が始まってからも、W杯前に対戦したパラグアイとはまったく別物でした。プレッシャーが速く、圧力が凄い。もともと鋼のような物凄いフィジカルを持っている彼らが気迫というオーラを身にまとっていました。日本は局面でのバトルで太刀打ちできず、シュート場面でもゴールを決めようと執念が凄まじい。スマートにプレーするのではなく、すべてにおいて闘志むき出しでファイトする相手選手から殺気すら感じるほどでした」

 結果は0-4の惨敗。積み上げてきたはずの自信は、脆くも崩れ去った。国際Aマッチ通算116試合に出場した経験を持つ川口氏は「あのパラグアイ戦は忘れられない」と唇を噛んだ。

「本当の意味で何もできず圧倒されました。現役時代で最もタフなゲーム、相手に圧倒されたゲームは? と問われたら、コパ・アメリカでのパラグアイ戦と答えます。それ以前も以後も大敗した経験はありますが、そういった試合でも多少なりとも対抗できたという手応えや意地を見せてきた自負があります。でもパラグアイ戦は手も足も出ませんでした。それこそカルチャーショックを受けるような敗戦でした」

 ペルーとパラグアイに連敗した日本は第3戦のボリビア戦を1-1で引き分けたものの、南米の高く厚い壁に阻まれて帰路に就いた。南米諸国がホームアドバンテージを最大限生かし、日本にとって完全アウェーの戦いは生易しいものではなかった。

 ただし、当時の日本代表が過渡期にあった点を記さないわけにはいかない。

その後に生きた財産「世界の広さを味わえたという意味で貴重な経験でした」

 フランスW杯後の98年9月にフィリップ・トルシエ監督が就任。トルシエ監督は99年のワールドユース(現・U-20W杯)に臨むU-20日本代表2000年シドニー五輪に臨む五輪代表を兼任して新たな日本代表を作り始めた矢先の大会だった。

 さらにこの大会には小野伸二や稲本潤一、高原直泰といったワールドユース組や、同時期にシドニー五輪予選を戦う中村俊輔ら五輪世代の選手はほとんど招集されていない。あるいは唯一の海外組であるペルージャの中田英寿も不参加。フランスW杯メンバーが約半数選出されていたとはいえ、トルシエ監督が考えるベストメンバーとは若干異なる面々で戦わざるをえなかったのである。

 事情こそ異なれども、ベストの布陣で臨めないのはもうすぐ大会に臨む現在の日本代表にも通ずるところ。20年前の出来事をまるで昨日のことのように鮮明に記憶していた川口氏は「ここで得た経験が本当に大きかった」と感慨深く語る。

「当時の僕は鼻をへし折られたという気持ちで落ち込みましたが、今になって考えると世界の広さを味わえたという意味で貴重な経験でした。日本代表チームとしても南米チームの強さを肌で感じられた経験が、00年のアジアカップ制覇や02年日韓W杯での決勝トーナメント進出につながっていきました」

 23歳だった川口氏に深く刻まれた記憶は“南米の洗礼”と呼ぶにふさわしい。しかし、その後に日本代表が大きく飛躍を遂げるための血肉となったのも、また確かである。(藤井雅彦 / Masahiko Fujii)

川口能活氏は1999年のコパ・アメリカに出場した日本代表の一員だった【写真:松橋晶子】


(出典 news.nicovideo.jp)